00323-050227 子どもは社会の鏡
ここ数日、仕事が立て込んでおりました。
blogを書く時間がなく、いま4日分まとめてアップしました。
mixiにいただいたコメントの中に、「やはり、家庭、社会、学校の基本的な責任分担はあって然るべきだと思います。教師が何でも「家庭の責任」と責任逃れをするのであれば問題ですが、今まで学校に入る前に子どもの身に付いていることが、身に付いていないことが、学級崩壊等の一因にもなっています。学校に求められる役割が肥大化しすぎているのです。」とのご意見がありました。今日はそれについてshioの考えを書かせていただきます。
大学で、ゼミで、shioは学生たちになんでも教えます。
挨拶のしかた、研究室への入り方、ジャケットのボタンの止め方、シャツと上着の色の合わせ方、ネクタイの結び方、お皿の洗い方、敬語の使い方、手紙の使い方、お礼状の書き方……。アーチェリーの射ち方、ヨットの操縦のしかた、カヤックの漕ぎ方、泳ぎ方、キャンプファイヤーの楽しみ方、火の起こし方、演奏の楽しみ方……。そういった諸々の物事を学生に伝えるとき、これは家庭が教えるべき、これは高校までで教わるべきなどと考えたことは一度もありません。
もし仮に教わったことがあっても、忘れているかもしれない。
人間は忘れます。shioも忘れます。
忘れていたら、また教えればいい。
もし仮に教わったことがあっても、実践するのが初めてかもしれない。
人間は繰り返しが必要です。shioも教わってすぐにはうまくできません。
初めてだったり経験が浅ければ、うまくできなくて当たり前です。
学校に期待し過ぎだ、と主張する人がいます。shioは全くそうは思いません。
家庭も学校も社会も、イーブンです。
家庭も、学校も、社会も、すべての大人が子どもに教える責務を負っているのです。
もちろん、家庭がやらなくてよい、などということも微塵も考えておりません。家庭も学校も同じように責任を負っています。
shioは、家庭やキャンプでも全く同じように子どもたちに何でも教えます。
数学、物理、生物、音楽、料理、歴史、地理……。日本語、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語……。およそshioが知っていることは、なんだって説明します。「これは学校で教わること」なんて考えたことありません。すべての大人は自分が知っているすべてをすべての子どもに伝える責務があります。家庭が子どもたちにものごとを教えるのは当たり前、学校が子どもたちにものごとを教えるのは当たり前、社会が子どもたちにものごとを教えるのは当たり前。
太古の昔から生物の情報は、遺伝子によって世代間を伝達されてきました。しかし、人間は、言語その他のコミュニケーションによって情報の世代間移転を行なう術を身につけたのです。したがって、情報を年少者に伝えるのはすべての年長者の責務です。
「なんだおまえ、そんなことも知らないのか」
という態度で生徒に接する教師に会ったこともありますが、それは教師として最も不適切な態度です。人にものごとを教える立場に立ったら、「相手は何も知らなくて当たり前」という前提から始めるべき。そして、もし知っていたらそれをほめる。「プラス指向」です。相手が知っている部分をどんどん引き出してゆくことによって、何を知っていて何を知らないかを明らかにする。そのあとで、知らない部分について直接教えたり、ヒントを与えて考えさせたり……という様々な教育手法が生きてくる。 いつも言っておりますが、「知らない」というのは何ら問題にならない。知らなければ知ればいい。知らない人がいれば教えればいい。それだけの話です。教えることによって「知識」を共有し、その上でお互いにどんな「知恵」をを出すか。そこが大切で楽しいところです。いい知恵を出せるように導いてゆくのが教育です。知識の伝授なんて教師であろうと親であろうと本であろうとネットであろうと、どこからでも可能です。知恵を出す前提となる知識は、知らなければ知ればいい。知らい人がいれば教えればいい。それを教えるのに、役割分担なんてありません。これは学校が教えること、これが家庭が教えること、これは本から教わること……、なんていう分担はあり得ません。ナンセンスです。
大切なのは、知識の多寡ではなく、いかに知恵を出すか、です。
子どもは家庭、学校、社会のすべてから教えを受けて育ちます。
したがって子どもは、家庭、学校をふくめた社会全体の鏡です。